もしも私が19世紀の韓国の指導者だったら
私はいつも「興宣大院君(こうせんだいいんくん)」の代わりに19世紀の韓国の指導者だったら韓国の歴史を変えることができると考える。それだけ19世紀中盤から20世紀中盤までの韓国の歴史は悲劇といえる。19世紀のアジアは欧米帝国主義列強の侵略があり、多くの国が欧米列強の植民地になった。もちろん、アジアの国である韓国と日本も彼らの侵略の対象だった。しかし、両国の運命は天国と地獄の差異だったといえる。日本は「明治維新」という改革に成功し欧米化されて富強な国になり、韓国はそのような日本の植民地になって36年の間支配を受けた。いったいなぜこのような結果が発生したのだろうか?
19世紀の韓国は「朝鮮(ちょうせん)」と呼ばれる王朝が存在した。当時の「朝鮮」は腐敗が多く、社会が混乱して王権が弱かった。このような時期に一人の男が現れた。その人は「興宣大院君 (こうせんだいいんくん)」の「李昰応 ( イ・ハウン )」と呼ばれる男だった。「興宣(こうせん)」は彼が「朝鮮」の王族という立証する呼称であり、「大院君(だいいんくん)」は王の父を呼ぶ呼称であった。彼は自分の息子が王になると王の父で摂政をして、強力な権力を持つようになった。彼は「朝鮮」の腐敗を清算して混乱した社会を正して王権を強くした。そこまでは本当に良かった。しかし、彼は致命的な政治的ミスを犯してしまった。まさに西洋との国交正常化を拒否したのだ。彼は西洋は野蛮な文明だと思いし、当時の「朝鮮」に存在していた西洋の宗教キリスト教も弾圧した。しかし、これは時代の流れに取り残される行為であり、「朝鮮」の滅亡の原因となり、日本の植民地にされる結果を生んだ。
19世紀の日本を見れば、「明治維新」を皮切りに、国の力が、急速に発展していた。国は、西洋で富国強兵がなされて多くの思想家と学生が西欧文物を学び、 西洋へ留学した。このような日本の歴史を見れば、むしろ日本が強くならないのが不思議だと思う。このような日本とは異なり、「朝鮮」はむしろ国の門を強く閉じていたのだ。その時、「朝鮮」は未来が見えないほど暗く、36年の植民地支配は当然の結果だったといえる。悲しい事だった。私は韓国人だが正直言うと、この時期の韓国の歴史が本当に嫌いだ。
日本による韓国の植民地支配が終わってから60年が経ったが、今でも日韓関係は良いと言うことはない。日本の過去の歴史清算問題もあるが、「興宣大院君」を始まりに19世紀の「朝鮮」の支配層が世界の流れをよく把握していなかった理由もある。もし私が「興宣大院君」だったら無条件に西洋の国々と国交をして彼らの文物を受け入れるだろう。また、指導者にもかかわらず直接西洋に学びに行くだろう。何でも直接見るのと同じくらい重要なことはないからである。国を富強にすることができれば、身分も構わない苦労も拒否しないだろう。この時、私が「朝鮮」の指導者だったら、日本の「明治維新」のような改革を成功させ、今の日韓関係もあまり悪くなかっただろう。可能であれば、19世紀に一度戻ってみたい。
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