2012年10月20日土曜日

ソマコーン・マイケル


「異文化間の類似点」
      異文化の勉強では、習慣や行為の相違点について話さなくてはいけない。外国の文化と自分の国の間に、必ず違うところが多くあるので、あまり面白くない話になる。だが、相違点より希少な類似点について話したら、他の国の文化の理解ができることだけでなくて、もう少し面白い話になる。授業の読み物では異文化の相違点と類似点がよく表される。最近、アメリカ人の教師の困った状況についての読み物では、そのような類似点に気づいたので、その状況について話したいと思う。
      日本の大学で教えたアメリカ人の教師は、教えていた授業の学生達に簡単な質問を尋ねた後、誰も返事しなかった。さすがに、アメリカ人の教師は怒って、日本人の同僚にその学生が黙った話を伝えた。その話を聞くと、日本の教師も怒った。同じ理由で怒ったかどうか分かるわけがないが、生徒たちの沈黙は、両方の教師にとって、とても変なことだった。つまり、日本人教師の反応は、アメリカ人教師の反応も同然だった。その上に、両方の教師の学生がすぐ答えるの期待も同じ期待だった。同じ読み物に、もう一つ、異文化の類似点の例があった。その記事では、学生達の沈黙の理由を説明書いた。日本人にとって、集団の中で、個人の意見を述べることは、集団の会員に失礼になると思われているから、集団の意見を決めないまま、誰も教師の質問に答えなかったと書いていた。私は、アメリカ人の生徒たちがさすがに先生からの質問をすぐに答えるはずだと思ったが、アメリカ人の学生も、同じ状況では黙るそうです。先日の授業で、教師が「ドアを開けてもいいですか」と聞いて、誰も答えないまま、教師がドアを開けた。この場合、アメリカ人の生徒たちは、読み物の日本人学生のように、何も言わなかったが、理由は全然違うのだ。アメリカで、個人的な意見を述べるのは失礼だと思われていない。しかし、アメリカで、先生の意見は学生の意見よりいつも優先されているので、生徒が自分の意見を述べたら教師が無視されるばかりと感じて、誰も何も言わなかった。この理由で、先生から「ドアを開けてもいいですか」のような質問は、アメリカの学生にとっては本当の質問ではなくて、声明のようなこととして受け取ったそうだ。その例を見ると、生徒たちの考え方や受け取り方は全く違うかもしれないが、アメリカでも、日本でも、同じ状況では、同じ反応する場合も多くあるようだ。
このような希少で、素晴らしい異文化の類似点は、探したら、どこでも見える。欧米と日本の違うところは切りがないといえるかもしれないが、相違点は世界中でよく知られているから、あまり印象的なことではないと思う。私にとって本当に不思議なことは、欧米と日本の文化に同じことだ。異文化間のコミュニケーションでは、他の文化を分かることが必要だといわれているが、相違点ばかり中心をしたら、本当の理解ができるのだろうか。本当の理解ができるように、他の国の文化との自分の文化の同じところを考えなくてはいけない。

2 件のコメント:

  1. プランキット・ミッキー2012年10月22日 15:42

    そうだね。日本とアメリカだけではなく、文化の相違が多くても、同じことも意外にあるんだ。そして、ちゃんと異文化の人と話す上で、その類似点を見つけるのはすごく役に立つと思う。

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  2. シン・ジュンヨン2012年10月24日 0:24

    今は世界中の人々が交流する機会が多いので、異文化間コミュニケーションはとても大事な問題だと思います。いつもお互いよく理解できるといいですが、時々それができなかった結果で争いが起こることも多かったからです。マイケルさんが言った、異文化の類似点を探して理解するようにするのは、確かにいい方法だと思います。最後には違うところもみる必要があるかもしれませんが、異なる文化について調べ始める時には、普通自分の文化と似ているところからみるからです。

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